「1979年 世界保健機関(WHO)が天然痘の根絶を宣言」
人類史上で唯一、伝染病を撲滅させた事例です。時はさかのぼり、これから約150年前。江戸時代の日本で天然痘(疱瘡・痘瘡)の「予防」に尽くした人物、いや、”夫婦”をご存じでしょうか。
今回ご紹介する小説は、佐藤澪 著「白蕾記」。主人公は、天然痘ワクチンを普及させ、近代医学の祖と呼ばれる「緒方洪庵(1810-1863)」と、妻「緒方八重(1822ー1886)」。
誰もが抱く普遍的な悩みにそっと寄り添い、優しく後押ししてくれる作品です。

つれづれ(@periodnovels)です。「日々のおともに手に汗握るもう一つの人生を」をテーマに、実在した人物・出来事をベースとした小説をご紹介しています。
「白蕾記」はどんな本?
✓あらすじ 江戸時代:1838/天保9年~1868/明治元年
大坂で蘭学塾「適塾」を営む医学者:緒方洪庵と妻:八重。死亡率が高く、助かっても跡が残ってしまう伝染病「疱瘡」がない世を切り開くため、後に幕末・明治の志士となる塾生たちとワクチンを世に広めていく。しかし、予防の概念がない時代。周りから”蘭学かぶれ”と石を投げつけられても、彼らは「医」を施し続けた。近代医学の礎を築いた夫婦と教え子たちの苦悩と挑戦を描く。
✓読みやすさ ★★★★★
単行本300ページと分量はやや短めで読みやすいです。また、章ごとに時代が少しずつ進み、かつ視点人物が変わるため、連作短編小説として楽しめます。誰もが抱く普遍的な悩みを抱く各章の人物たちは、緒方夫妻を通じて、自分の人生をどう見つめ、どう人生の一歩を踏み出したのか。新生活が始まるこの季節、ぜひ手に取ってみてほしい一作です。
「緒方洪庵・八重夫妻」ってどんな人?
医師としての確固たる信念を持ち、多くの若者の人生を後押しした夫婦
※作中の人物像を含みます。

現:岡山県にあった足守藩 藩士の三男として生まれた洪庵は、元服後、父と共に上京した大坂で蘭学・医学を学び始めます。その後、江戸・長崎への遊学を経て、29歳で大坂に戻り、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開塾。同年、現:兵庫県西宮市名塩の医師:億川百記の娘であった17歳の八重と結婚します。
ここから「白蕾記」の物語は始まります。
洪庵は医師・塾生の師として適塾を取り仕切る一方、八重は塾生の生活全般の面倒を見ながら、彼らの勉学・医学を支えます。その後、海外から「牛痘苗(ワクチン)」を入手した洪庵は、ワクチンを接種する「除痘館」を設立。幾多の困難を乗り越え、関東から九州まで186箇所もの「除痘館」設立に貢献します。この功もあり江戸将軍家に呼ばれますが、心労がたたったのか、洪庵は江戸の地で亡くなります。
妻:八重は洪庵の死後、種痘所の跡地に建てた隠居所に暮らし、9人の子ども達や塾生の活躍を見守りながら、約20年後に亡くなります。塾生から慈母のように慕われた八重の葬儀の参列者は2,000人を超えたとか。
ちなみに、洪庵が興した「適塾」は、幕末の動乱で一度は閉鎖するも、緒方惟準(次男)や塾生により「浪華仮病院」として再設立。改組・改称を経て、現在の国公立大学:大阪大学に至ります。
大きく時が流れた1979年。ついに、天然痘はこの世から根絶されたことがWHO(世界保健機関)より発表。「除痘館」を設立してから130年後、緒方夫妻の願いはついに叶ったのです。天然痘根絶に力を尽くした緒方夫妻がもし生きていたならば、誰よりもこの知らせに喜んだことでしょう。
おすすめポイント・読書体験
① 夫妻が後押しする塾生たちの成長
② 人から人へ繋がれてゆく白い蕾
夫妻が後押しする塾生たちの成長
緒方夫妻が営む蘭学塾「適塾」の塾生は延べ3,000人とも。後に幕末・明治の志士と呼ばれる人物もいますが、そんな彼らも10-20代の青年。誰もが人生の岐路に立ち、葛藤・悩みを抱えています。
・進む道を決めつけ過ぎてしまう「橋本左内(1834-1859)」
・周囲の言葉に迷い悩んでしまう「松本俊平(生没年不詳)」
・成りたいものが見つからない「福沢諭吉(1835-1901))
そして、緒方洪庵もまた、自分の道を追求しすぎ周りが見えなくなってしまう人物でした。そんな彼を支えた人物こそが、他ならぬ妻:八重だったのです。
支え合う緒方夫妻を通じて、まだ何者でもない若き志士たちは、どのようにして人生の一歩を踏み出したのか。誰もが心のどこかで共感してしまう青年たちの心の成長が一つ目の読書ポイントです。
諭吉は生まれて初めて、自分がどうなりたいのかを、言葉にしたような気がした。家督を継げない次男坊としてではなく、諭吉という一人の人間として、どんな道を歩きたいのか。
佐藤澪著「白蕾記」P261
人から人へ繋がれてゆく白い蕾
洪庵が「除痘館」を設立したころは、ワクチンを保存する機械もない時代。当時は「牛痘(ワクチン)」を摂取させた子供に発言する”白い蕾”のような腫れを、未接種の子供にワクチンとして接種させていました。
言葉通り、人から人へ、白い蕾のワクチンを繋いでいたのです。しかし、繋がれていったのはワクチンだけではありません。
子を死なせたくない親の想い、「疱瘡」なき世をつくる洪庵ら医師たちの想いも合わせて繋がれていき、その中で若き塾生たちはこれからの人生に向けた志という蕾を膨らませていったのです。
タイトルにある「白蕾」に込められた幾人もの想いとは何だったのか、時に涙し、時に心温まる人の想いが2つ目の読書ポイントです。
疱瘡で苦しむことのない世……その夢幻のような世に向かって、洪庵は歩んでいた。その道を歩きながら洪庵が蒔いた種は、これからも、ひと針、ひと針、植え接がれていくのだ。
佐藤澪著「白蕾記」P300
あとがき
本作の書影に描かれている美しい「青い硝子瓶」と「白い花(花名:紫)」は、緒方夫妻の絆を表しています。(作中を読み進めていくと分かりますので、詳細の記載は避けます)
夫妻が互いに支え合う絆は、若く悩みを持つ塾生たちに、「誰かとともにあることで、自分や周りを顧みることができる大切さ」を教えます。
リモートワーク、ネット/SNSでのつながりなど、人と人との繋がりが複雑化する現代だからこそ、本当に大切な人との絆を改めて顧みることができる作品です。
いつ見ても、硝子瓶は澄んでいて美しかった。この中には、洪庵の優しさが詰まっているような気がしてならなかった。この澄んだ優しさを抱えた洪庵が、己に適すると思う道を歩いて行くのなら、どんな道であろうとも、八重は洪庵の隣を歩いていたかった。
佐藤澪著「白蕾記」P52
「夫妻の絆」を描いた作品としては、時代は同じくも場所は長崎に変わった朝井まかて著「朝星夜星」がおすすめ。仕事を通じて深まる夫婦の絆が読書ポイントの一作です。