
こんにちは、つれづれ(@periodnovels)です。このブログでは、実在の人物や出来事を元にした小説を紹介しています。
このブログは「日々のおともに手に汗握るもう一つの人生を」をテーマに、実在した人物をベースとした小説をご紹介しています。
今回ご紹介する小説は、霧島兵庫 著「二人のクラウゼヴィッツ」
描かれる人物は、名著”戦争論”の著者「カール・フォン クラウゼヴィッツ(1780-1831)」
本作を一言にまとめると…
“戦争とは何か”を問い続けた夫婦
文章のそこかしこに見られるこうした矛盾の偏在は、改稿途上で投げ出された論文の不完全さに起因するものではない。これらはすなわち、ふと浮かんではたちどころに消えていく真理とその解明を試みた書き手との、数十年に及ぶ激闘の名残に違いないのである。
霧島兵庫 著「二人のクラウゼヴィッツ」P478
「二人のクラウゼヴィッツ」はどんな本?
✓あらすじ
夫)カール・フォン クラウゼヴィッツと妻)マリー・フォン・ブリュールを主人公に、戦争とは何かを問うた名著「戦争論」がいかにして世に送り出されたのかを、 クラウゼヴィッツが戦場に立ったナポレオン戦争における6つの戦争の流れとともに描く作品です。
✓舞台:18世紀前半のヨーロッパ
一貫して18世紀前半のヨーロッパを軸に、2つの時間軸で物語は進行します。一つは当時のヨーロッパを席巻したナポレオン戦争における6つの会戦を描く時間軸。もう一つは、ナポレオン戦争終結後から10数年後、戦争論を書き始めるクラウゼヴィッツ後年の時間軸です。1つの章の中でこの時間軸が入れ替わりながら話は進んでいきます。
✓気軽に読める度:★★★★☆
2つの時間軸が交差することに加え、戦場の状況理解や横文字の多さなど、舞台設定や戦争もの特有の小難しさがあります。一方で、戦争の酷さを描く会戦シーンに対して、夫婦の後年を描く時間軸は夫婦漫才のような小気味よいやり取りが多く、気楽に読みる作風です。
本作の読書体験はあとがきに!↓
クラウゼヴィッツ夫妻はこんな人
夫)クラウゼヴィッツは、少し矛盾した人物です。
祖国プロイセン(現在のドイツ)がナポレオンに屈すると、「祖国情けなや」とナポレオンと戦うロシアへ新妻をおいて駆け付けてしまう一方、稀代のナポレオン戦争に参戦するうちに「戦争とは何か」の気付きを得て、それを言語化していく理論家の一面も持ち合わせています。理論家なのか激情家なのか…
また、面白いのは、クラウゼヴィッツは軍事的功績が乏しい軍人であること。ロシアへの亡命のためか、祖国に復帰した後も閑職に追いやられたこともあり、軍人としてはいささか不遇な人であったのかもしれません。
しかし、この閑職に追いやられたことで、世界的名著”戦争論”の執筆が始めっていきます。クラウゼヴィッツは著作”戦争論”に何を託したのか。本作を通じて楽しんでみてください。

妻)マリーは、文化人でありとても頭のよい人物です。
史実においても、マリーは貴族の身分に生まれ、女官長・侍女長を務め、文化造詣に深い人物であったよう。本作では夫)クラウゼヴィッツと夫婦漫才のような掛け合いが印象的で、戦争の酷な描写が続く中、ほっと一息つかせてくれる人物です。
また、時に理論家肌のクラウゼヴィッツを言い負かすほどに聡明であり、クラウゼヴィッツへ戦争の心理を紐解くようなヒントを与えるシーンも。加えて、描写自身は多くないですが、夫)クラウゼヴィッツへの愛があふれる人物です。
「戦争論」が未完のままクラウゼヴィッツが急逝した後、マリーはなぜ「戦争論」を世に送り出そうと奮闘したのか。噛みしめるような想いを本作で楽しんでみてください。

おすすめポイント
夫婦漫才と教訓
本作は1章につき、ナポレオン戦争の会戦が語られるシーンと、夫婦水入らずの後年の時間軸の2つが交差しながら進んでいきます。この組み合わせが絶妙で、ナポレオン戦争で得られる戦争の教訓は、夫婦水入らずの時間軸での教訓と、どこか通ずる構成になっています。
「戦争と平和」の対局のシーンながら、根底に通ずるものがあることは、まさに戦争が人間の営みを表しているとするテーマと面白みがあります。分かりやすい一例をご紹介すると、第5話「ライプツィヒの狐」では、”準備の大切さ”がテーマとなっています。各章とも、後年の時間軸の会話から始まりますので、根底に通ずる教訓が何かを推理しながら、楽しめます。
結局、戦争とは何か。クラウゼヴィッツが後世に託した思い
本作は、この時代に戦争に従事した様々な立場の人間から、「戦争とは何か」が語られます。もちろんクラウゼヴィッツからも語られますが、本作でクラウゼヴィッツが戦争論に託した思いは、戦争の必勝本のようなものではなかったのです。
戦争の悲惨さを自身の体験として深く理解し、戦争の矛盾さと誰よりも向き合ったクラウゼヴィッツが、晩年の十数年を費やした「戦争論」を通じて、後世に託したかった想いが、本作の終盤で胸に響いてきます。
文章のそこかしこに見られるこうした矛盾の偏在は、改稿途上で投げ出された論文の不完全さに起因するものではない。これらはすなわち、ふと浮かんではたちどころに消えていく真理とその解明を試みた書き手との、数十年に及ぶ激闘の名残に違いないのである。
霧島兵庫 著「二人のクラウゼヴィッツ」P478
あとがき
前述の通り、クラウゼヴィッツは軍事的功績が少ない人物のようですが、必ずしも実績と論文などの言語化能力は一致しないことを痛感させられます。また、クラウゼヴィッツは十数年もの長き渡り”戦争”と向き合ってきたからこそ、こうした著作を生むことが出来ました。
こうした「能力の多様性」と「継続は力なり」という事実は、自分自身を凡人と自覚する人にとっても、どこか明るい光が差すのではないでしょうか。
最後にクラウゼヴィッツの師:ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの作中のセリフを引用します。(正確には、当時の小説家:ゲーテの言葉)人の命をいとも簡単に吹き飛ばす戦争。それは人間の営みそのものでありながら、不条理の最たるもの。そんな戦争と必死に向き合い、必死に紡いできた人間の価値を感じてみてください。
これからいろいろあるでしょうが、けっして、現実などに負けてはいけませんヨ。希望は風雨の夜に早くも朝紅をさすと言いマス。現実を支配しても現実に支配されない、そこにこそ人間の価値は存ずるのデスから
霧島兵庫 著「二人のクラウゼヴィッツ」P252