内から滾るアイヌの誇り |「ユーカラおとめ」泉ゆたか著

歴史小説
つれづれ
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つれづれ(@periodnovels)です。このブログでは、実在した人物で出来事を描く小説を紹介しています。

今回ご紹介する小説は、「ユーカラおとめ」泉ゆたか 著

主人公は、大正時代にアイヌ民族で口頭により伝承されてきた叙事詩(=ユーカラ)を書き記した「アイヌ神謡集」を編纂者であるアイヌ女性「知里幸恵(1903-1922)」。

知里幸恵(1903-1922)

「ユーカラおとめ」はどんな本?

✓読みやすさ ★★★★☆

単行本270ページと分量、視点人物は知里幸恵のみで時間軸は一部の回想を除き、過去から現在の流れのため、構成としてはとても読みやすい作品です。他方、巻末に注記されている通り、当時の民族差別を等身大で描いた表現が作中にしばしば現れます。

作中の時代背景となる大正時代の差別問題に関連し、今日から見れば不適切な表現を用いた箇所があります。いわれなき差別との闘いが本作の重要な主題の一つであるため、あえて当時の表現を用いました。ご理解賜れれば幸いです。

「ユーカラおとめ」泉ゆたか著 巻末

✓あらすじ

語学学者の金田一京助の誘いを受け、自由を求めて上京した語学の才あふれるアイヌ民族の知里幸恵。しかし、上京した彼女を襲ったのは和人たちの無意識的な民族差別に女性軽視だった。病弱な体に慣れない生活の中で、知里幸恵が「アイヌ神謡集」に書き残し、そして後世に託したアイヌ民族のユーカラとは。著作完成の当日に、わずか19歳で亡くなった知里幸恵の最晩年を描く。

「知里幸恵」はどんな人?

アイヌ民族の女性という変えようのない生涯を生きる中で、見出した使命を全うした人物
※作中のイメージです。

1903年(明治36)に現在の北海道登別市に生まれた知里幸恵は、伯母にあたる金成マツ(1875-1961)の元で育てられます。子どもの頃から語学の才が秀でており、旭川高等女学校からの不合格通知が来た際には、「優秀なのになぜ」と町で噂が飛び交ったとか。

その後、アイヌ民族の研究を行っていた金田一京助の目に留まったことがきっかけで、金田一の研究の助手として19歳で上京します。

ここから「ユーカラおとめ」の物語は始まります。

この後、約半年間をかけて「アイヌ神謡集」を完成させ、完成させた当日の晩に知里幸恵は19歳という若さでこの世を去ります。「自由」に憧れた東京での生活は、知里幸恵にどのような刺激を与え、そして「アイヌ神謡集」の執筆に何をもたらしたのか。ぜひ本作でお楽しみください。

ちなみに、登場人物たちのその後を簡単に紹介します。

伯母:金成マツは幸恵が亡くなってから40年ほどを生き、その間に多くのアイヌ文学を書き遺しました。戦後にあたる1956年には紫綬褒章を受章、1961年4月に85歳で亡くなります。

末弟:真志保は金田一京助の勧めを受け、東京帝国大学(現:東京大学)に進学。学者としてのキャリアを積み、アイヌ民族で初となる北海度大学教授を務めます。奇しくも金成マツの死わずか2か月後の1961年6月に52歳で亡くなります。

おすすめポイント・読書体験

内から滾るアイヌ民族としての誇り

幸恵は北海道で体感したアイヌ民族に対する差別から離れ、かつアイヌ民族の高尚なるユーカラを後世に遺すべく、希望をもって「自由」たる東京へ旅立ちました。

しかし、東京で目のあたりにしたのは、蔓延していた無意識的なアイヌ民族への差別。それは、慣れない東京生活で唯一の拠り所でもあった金田一夫妻からも発せられるものでした。日々向けられるアイヌ民族への蔑視は、怒り・嘆き・憎しみ・悔しさとして、まるで炎のように幸恵のうちで燃え滾ります。そして、この炎は生来病弱な幸恵の体をさらに蝕んでゆき…。

もはや時間がないと悟った幸恵は、アイヌ民族の誇りたるユーカラを記した「アイヌ神謡集」に何を託したのか。やり場のない怒り・ままならぬ人生に絶望を覚えながらも、信念をもって立ち向かう幸恵のひたむきな姿が一つ目の見どころです。

また、これらの幸恵の複雑な心の内を克明に描き出す一文一文が、本当に素晴らしい作品です。一文一文が心に深く刺さっては残り、幸恵の心情の機微一つ一つを噛みしめる一作です。

マツが満足げに頷く姿が目に浮かぶような気がした。
この本は、怒りと嘆きと憎しみと悔しさ。私たちアイヌが藻掻き苦しみ吐き出した血で書かれた物語だ。

泉ゆたか著「ユーカラおとめ」 P263

女性として生きるということ

金田一京助の妻:静江や、作家:中條百合子など、大正時代を生きた女性が象徴的に登場します。そして、彼女たちの発言や本人たちからは決して話されない目には見えない悲しみは、知里幸恵の心に影響を与えていきます。

それは、子をなした母として生き方や、使命を持つ女性としての生き方など様々です。こうした生き方は、ある意味で明るく幸恵を照らす一方、病弱な幸恵には残酷な未来をも映し出します。

使命をやり遂げたうえで、幸恵が最期に望んだ生活とはいかなるものだったのか。多様な生き方が叫ばれる現代でもなお、結局は何かに縛られざるを得ない人生に共感しつつ、身近な幸せへの慈しみを覚える一作です。

「幸恵さん、あなたが本気でこの世界と向き合うなら、アイヌ民族の未来を背負って、偏見を拒み、間違っていることにはノーと言い切れる強さがあるならば、きっと世の中は変わっていくはずよ。アイヌへの認識が大きく変わるはずよ」
「どうしてそれを私に求めるのですか?」
百合子とまっすぐに向き合った。
「あなた方和人が私たちアイヌをどう思おうと、それはあなた方の問題です。誰が何を思おうと、私の人生は何一つ変わりません。ただ己に与えられた日々を生きるだけです」

泉ゆたか著「ユーカラおとめ」P257

あとがき

読了後、幸恵は本当に最後まで「アイヌ神謡集」を書き遂げられたのだろうか…と、個人的には想いを馳せました。

ネタバレを含む恐れがあるため具体的な文面は避けますが、プロローグの一文とラストシーンの一文が合わなかったり、史実(?)とされている原稿完成当日に亡くなったというのも、あまりにもドラマチックで出来過ぎてはいないか…と。

真実はどうにせよ、こうした想像を膨らませながら、実在した人物へ想いを馳せることも歴史小説の醍醐味の一つですね。

また、今作のテーマに通ずる「アイヌ民族」を描いたおすすめの作品は、人から人へ伝播していく「熱」が主題の直木賞受賞作:川越宗一著「熱源」。主人公のヤヨマネクㇷ(山辺安之助/1867-1923)は、知里幸恵と同じくアイヌの出身で時代背景もほぼ同じ。大きく異なるのは、東京ではなく北海道や樺太半島で生きたアイヌ民族たちを描く点です。ヤヨマネクㇷは金田一京助との邂逅もあるため、本作と合わせて読みたい一作です。

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